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SIBC 2020年2月の練習会

今日はSIBCの練習会に行って来ました。去年の夏くらいを最後に新人さんは来てませんので当然のように初心者講習もやってません。まぁ、今は自分でお店をやっている訳でもないですし試合に出ることも今後ないでしょうし、自分自身が上手くなろうとも思ってません。ただ、30年以上続けて来たビリヤードという楽しいスポーツを健全に広める一助に成れれば良いという思いは今でも持ってます。

そういう意味ではSIBCの練習会における初心者講習の講師ってのはライフワークと言っても良いものなんですが前述のとおり新人さんや初心者の方の参加が激減してしまっているのでいつものメンバーでナインボールのセットマッチという感じで活動することになります。

それはそれで楽しいんですけどね。気心の知れた仲間と月に一度会ってビリヤードしながら冗談言ったり、ああでもない、こうでもないとビリヤード談義したり…

今日の参加は俺を含めて4名。2台のテーブルでナインボールのリーグ戦。人数も少ないのでセットダウンなしでやりました。

結果は全敗でしたぁ~

まぁ、仕方ないですね。そんなに悪い感じじゃなかったんですけどね。流れと言いますか展開と言いますかね。それを自力で変える力はありませんでしたねぇwww

一緒にビリヤード楽しみたいなぁ~って方は是非遊びに来てくださいね。次回は3月8日(日)に渋谷CUE7階で14時集合になってます。詳しくはSIBCのホームページをご覧ください。

今日の練習会の模様はいつもどおりInstagramで公開しています。


あちこち痛い

今日は今年はじめてサイドナインさんにお邪魔して来ました。

軽く30分ほど一人でアップしてあとはいつものメンバーでナインボールのセットマッチです。

たいし W5-1L Mさん(B)
たいし W5-4L Iさん(A)
たいし W5-0L Mさん(B)
たいし W5-2L Hさん(C)
たいし L4-4W Sさん(B)

4勝1敗と結果だけみれば良かったんですが、内容的には結構厳しいものがありましたね。ブレイクして「これは出来たでしょ?」って配置が2回ほどあったんですが、両方ともハイボールで飛ばしてセットを落とす感じでしたね。序盤の小さなミスを完全にリカバー出来ないままに徐々に苦しくなって終盤でミスをするという感じでコンスタントに撞いてないとこんな感じなんですかねぇ…

まぁ、勝ち負けや内容が伴えばそれに越したことはありませんが、今は単純に球を転がしていることが楽しいのでそれで良いかな?とも思います。

で、2時間を超えたあたりから今日は腰の痛みに加えて右肩が痛み始めました。しかも肩の後ろ側です。これは明らかに無理が掛かっている状態ですね。恐らくフォームが崩壊してますw

バランスの悪さは感じているんですが、それをゲーム中にホイホイと修正できるほど簡単なものじゃないのは分かっているのでコンディションに合わせてそれなりにビリヤードっぽく撞いてみました。この辺りはキャリアだけはあるのでwww

明日起きたら別のところが痛みそうですねぇwww


SIBC 2020年1月の練習会

本年初のビリヤードはSIBCの練習会になりました。何やらまたCUEのレイアウトが変わったようで6階のダーツが移動したようですね。通常は6階からお客さんを埋めて行くんですが、今日は14時の時点で7階にかなりの客を入れてました。予約でテーブルを取っていた訳ではないので大丈夫かしらん?と思っていたんですが人数が今回も5名と少ないこともあって2台は比較的近いテーブルを取れたので良かったです。3時間パックも復活したようでこれからは3時間パックを利用して1,500円がプレー代って感じになりそうですね。

さて、肝心の内容ですが上記のような訳で練習テーブルがある訳でもなく初心者講習をの講師をする必要もなくいきなり慎一相手に流しのナインボールでアップします。まぁ、しばらく間が空くのはいつものことですが良いことも悪いことも毎回リセットなので調子もなにもあったもんじゃない出たとこ勝負なんですが今日は比較的波長があったみたいですね。

その後のリーグ戦で3連勝しました。マスワリも1個だけですけど新年初っ端のビリーヤードで出たのは良かったですね。去年はなんとかマスワリ10個の目標も達成しましたし今年も同じような感じで行きましょうか?でも、やっぱり少しは進歩が欲しいから11個を目標にしようかな?

練習会の模様はいつもどおりSIBC公式Instagramで公開しています。

これからビリヤードを始めたいという新人さんも募集していますので気軽に練習会に遊びに来てくださいね。くわしくはSIBCのホームページをご参照ください。


2019年振り返り(仕事)

今年を仕事面で振り返ってみたいと思います。

ここ数年はPC教室、大学講師、WEB作成(メンテ)が仕事の柱って感じですね。まぁ、ちょこちょことイレギュラーな仕事もありますけどね。収入の面でいえばこれらの仕事と不動産収入って事になるんですが、こちらの方は前にも書きました通り現在はテナントが2つ空いてしまっているので正直やばいですwww

2019年振り返り(移転)
うちのビルは1階と2階がテナントになっています。その2階の北側階段がパソコンスクールZAMaになってます。元々親父が建てたビルなんですが、バブル崩壊やらなんやかんや紆余曲折がありまして今は俺の名義になってますが、まだまだたっぷりローンが残ってますwww 俺の稼ぎだけでローンも家計も...

まぁ、とは言えこの状況が1年も続くようなことがあればちょっと考えないといけないですが、今のところはそう慌てる必要もない感じではあります。

PC教室は相変わらずですね。マンツーマンをベースとしていますし、大学等の集中講義のときなどには非常に予約も取りにくい状況でご迷惑をお掛けしているのであまり積極的に広報もせずなんですが一定数の生徒さんは常に確保できてます。もっとも得意とするのは資格試験向けの対策講座ですがニーズはやっぱりWord、Excelの使い方が多いですね。今はプログラム教室が流行りですが一過性のブームでは以前のパソコン教室ブームみたいなものですぐに淘汰されちゃいますからね。実際に以前は良く聞いたチェーンのPC教室って少なくなりましたよね。これについてはPC教室のブログで書いたことがあるのでそちらをご参考にして頂きましょうかね?

プログラム授業必修化 その1

プログラム授業必修化 その2

プログラム授業必修化 その3

大学の講義は今年も非常勤の講師として東京医療保健大学と湘南工科大学で教壇に立たせて頂きました。前後期合計で7科目9クラスを担当しました。履修者は延べで500人くらいでしょうかね?残念ながら週1の授業でこれだけの人数ですと全員の顔と名前を一致させることはできませんがそれでもひとりひとりと向き合うつもりで授業の方はさせて頂いたつもりです。既に来期も両大学からは契約の打診を頂いておりますので順調であれば来期も教壇に立つことになると思います。課外講義では湘南工科大学でITパスと基本情報、東海大学でITパスをそれぞれ春と夏に担当しました。来期は他の大学で基本情報を教える機会も増えそうです。

Web系の仕事はメンテナンスが中心で新規の案件はありませんでしたね。まぁ、こちらも積極的に営業している訳ではないんですが、結構な頻度で「ホームページ作りませんか?」って営業の電話やらメールは来ますね。ってかうちのホームページ観て営業してるんですかね?いうなれば競争関係になる訳でよくもまぁ営業出来るよなぁ~と感心するやらあきれるやらですけどね。

アプリは全く作ってません。大学の講義のサンプルで少しVBでプログラム書いたくらいですかね?次回からは基本情報にPythonが採用されますし、前述の小学生向けプログラムだとするとスクラッチとかももう少し書いてみても良いんですけどね。趣味で好きなプログラム書くのは良いんですけどその暇もないですしねぇ…

母から会社の会計を全部引き継いだのでその辺は少し仕事が増えましたが、母がノートやらソロバンでやっていたのをExcelに置き換えて、銀行決済もネットを中心にして省力化したので思ったよりは大変ではなかったですね。年末調整も無事に終わりましたし、確定申告、会社の決算も母が存命中に税理士の先生と俺がやり取りしているので次回も大丈夫でしょう。

さて、来年はどんな仕事が待ってますかね?それも楽しみですが、教室に来て頂ける生徒さんや大学で会う全ての学生さん達との出会いが一番の楽しみですね。

 

 


2019年振り返り(家族)

早いところ更新をしないと今年が終わってしまうw

ってな訳で家族をテーマに今年を振り返ってみたいと思います。まぁ、家族ということで言えば母が6月に亡くなったことが最大のトピックですが、詳細はすでに4回に渡って書いたので良いでしょう。一応ブログカード張っておきます。

2019年振り返り(母の事 Part4)
昨日は母が亡くなったところまでを書きましたので、今日はその続きです。 父と一緒に母の呼吸が止まったことを確認し、俺はドクター、看護師さん、ママ、弟たちに連絡をします。 夜中ではありましたが、ドクターが死亡を確認しその時の時間が正式な母の死亡時刻として死亡診断書に記載されました...
2019年振り返り(母の事 Part3)
昨日は母に病状を父が告知するところまでを書きました。今日はその後についてです。 母もなんとなく気付いてはいたのでしょうが、実際に告知をされると不安や恐怖があったのだと思います。ただ、母の望みをできる限り聞くことができる機会ができたのは母も我々家族も良かったのではないかと思います。 ...
2019年振り返り(母の事 Part2)
昨日は母に治療の方法がなく余命半年以内との告知を受けたところまでを書きました。今日はその後について書いて行こうと思います。 父と話した結果、母には余命のことは告げず2回目の抗がん剤治療が延期になったので一度帰宅して症状が落ち着いたら通院で治療を継続すると母には話をすることにしました...
2019年振り返り(母の事 Part1)
久しぶりの「今日のどう?」更新ですねw セブンを閉店してからプライベートな事はSNSで発言することが多くブログの更新は基本的にビリヤードの活動日記みたいになってましたからね。 ただ、今年はあまりにいろいろなことがあったので少し整理して書き残して置きたいと思った訳です。今日は一...

それ以外でも色々とありました。

まずは息子たち2人のダブル進学ですね。匠太は念願かなって中1の頃から目指していた県立高校に無事合格し入学を果たしました。中3の1学期に成績を落としたので心配しましたが夏休みから巻き返して内申点の評価対象となる2学期の成績をしっかり上げることもできました。夏期講習など数回の短期講習での通塾はありましたが基本的に塾なしでの受験だったのでママがネットで資料を調べまくり俺が応援するという感じの受験でしたねw県立高校共通の入試や特色検査(一部の高校が実施する独自試験)は想定から少し低くなってしまったので合格発表まではドキドキでしたね。入学してからは受験から解放されて少しはのんびり出来るかと思っていたんですが、進学校では許してくれないみたいです。受験生の時より毎日勉強してますね。付属に入ってのほほ~んと野球やってた俺には無理ですねwww

優輝は幼稚園を卒業します。また、亡くなった方の話しになっちゃいますが、匠太と優輝の卒園した幼稚園の園長先生が優輝の卒園式の翌日に亡くなりました。個性的で幼児期の一番大事な人間形成の元とも思える部分をしっかりサポートしてくれたと思います。優輝は先代の園長先生最後の卒園生となりました。

そして、小学校に入学。匠太と同じ公立の小学校です。違うのは匠太の時に再三の要望にも関わらず中々許可されなかった通学路が最初から認められたことですかね?匠太のときに認めているので前例があるとあっさり許可されるものですなんですよねw

二人の入学式は同日でした。で、優輝の入学式はママが行きます。匠太は高校生だから行かなくても良いか。と言うとさにあらず…案内には保護者が必ず参加するようにあります。それは、役員決めがあるからwww保護者が行かずに役員が決まらなかった場合に勝手に役員にされたり等と言う例があるとかないとか…ママから「高校は一度なると3年間役員だから絶対に引き受けるな」という至上命令を受けて匠太の入学式には俺が行くことになりました。無事に役員を回避し教室で保護者向けの説明があるとのことで自分の子供の席に座らされたんですが、お父さんで座っているのは俺だけw他のお父さんはお母さんも一緒なので座っているのはお母さんな訳です。ずらっと後ろにお父さん。席に座るのはみんなお母さんで俺だけお父さんというなんともシュールな感じになってましたね。

二人ともにぐっと大きくなりました。匠太は身長が180cmを越えて俺も見上げて話をするようになってしまいました。優輝はまだまだ小さいですがドラえもんよりは大きくなりました。クラスでは2番目に背が高いらしいですが2月生まれを考慮すると結構高い方だと思います。

悲しい別れもありましたが、母のおかげで兄弟や姪、甥たちと頻繁に会えたのは嬉しかったですね。おじさん、おばさん、従弟などたくさんの親戚に会えたのも母のお陰です。

親父は母の介護を通して少し丸くなったかもしれません。今まで何でも母に頼り切りで洗濯どころか自分のシャツの場所も分からなかったのに今では炊事、洗濯、ゴミ出し、ペットの餌やりから犬の散歩、畑の管理まで全部ひとりでやってます。きっと寂しいのだとは思いますが、それを口にする人ではないのでそっとしています。人に負けないことだけを信条として来た人ですが少し優しさを覚えたかもしれません。

そして、ママはずっとママでした。時に母の介護を支える嫁であり、時に息子たちの成長を見守る母であり、時にだらしなく頼りない夫の妻であり …その時々の苦労があるはずです。それでもママがママで居てくれることが何より俺には嬉しかったし安心出来ましたね。


2019年振り返り(移転)

うちのビルは1階と2階がテナントになっています。その2階の北側階段がパソコンスクールZAMaになってます。元々親父が建てたビルなんですが、バブル崩壊やらなんやかんや紆余曲折がありまして今は俺の名義になってますが、まだまだたっぷりローンが残ってますwww

俺の稼ぎだけでローンも家計も大丈夫だぜ!というほどパソコン教室もWEBの仕事も大学の講師も儲かりませんwww

セブンをやっているときは日銭はありましたが安定しなかったですし、最後の方は光熱費も出ないような有様だったのでスクールと区切って貸し出した訳です。

ということで今年の初めには1階に動物病院とお弁当屋さん、2階に学習塾の3つのテナントが入ってました。

で、10年を機にリニューアルオープンされるとのことで動物病院が9月に退去し、続いて11月には2階の学習塾が退去しました。まぁ、リスク分散で複数テナントにしていた訳ですがそれが同じ時期に2つ退去するというのはねぇwww

まぁ、セブンをやっていたころのアップアップの状態ではないので当面は問題ないんですが、やっぱり新しいテナントさん入って欲しいですねぇ…

興味のある方がもしいらっしゃいましたら…

1Fテナント詳細

2Fテナント詳細

去る者追わず、来る者拒まずの精神ではありますが来る者はちょっとだけ選ばせてください。出来れば長く良いお付き合いのできる方に入って頂けるとお互いにメリットになりますので…

ちなみに現在、唯一のテナントになっているお弁当屋さん(日食フーズ)はこれを機会に店舗を拡張するそうです。

あんまり決まらないようなら俺がまたビリヤード場でも開きますかねぇ?って絶対ないですね。もう身体が言うこと聞かないですし元々へっぽこだったのがさらにヘタレてますからね。ビリヤードは趣味で細く、長く付き合って行こうと思ってます。

今年の振り返りってまだまだあるんですよね。まぁ、次回からは少し仕事なども含めた明るい話題にしたいと思いますwww


2019年振り返り(旅立った友人達)

前回まで母が亡くなったことについての詳細を4回に渡って書いて来ましたが、今年は親しい方が何人か亡くなっているので記憶と記録に残す意味でここに思い出なども含めて書いて置きたいと思います。

6月に東京医療保健大学で同じ非常勤の講師として活躍されていた小林先生がお亡くなりになりました。小林先生と最初にお会いしたのは大学での講師をはじめて2年目くらいのことだったと思います。記憶に間違いが無ければ相模女子大のMOS講習でサポートとして入らせて頂いたときだと思います。その後も神奈川工科大、創価大などでもご一緒させて頂きました。現在、担当しているIT入門の前身である授業も小林先生から引き継いだものです。困ったときなどに相談をさせて頂くことも多く尊敬する先輩講師でした。

ひだ@しゃっちょ~こと樋田君(なんて呼んだことないけど…しゃっちょ~はしゃちょ~だよなぁ…)も今年鬼籍に入りました。SIBC本隊で知り合い神奈川支部会では毎回のように楽しそうにそして真剣にビリヤードをしていたしゃっちょ~です。セブンが閉店し会う機会が少なくなっていましたが、数回は神奈川支部会等で会っていました。ときどきふっと何してるかな?また、一緒にビリヤードしたいなぁ~なんて漠然と思っていたんですが、2代目支部長のマッチャンからの突然の電話で訃報を聞くこととなりました。

ビリヤード関連ではJPBA所属だった辻プロも今年亡くなりました。生意気な年下のプレーヤーくらいの認識だったんですが、その癖人の懐に飛び込むのが上手いんですよね。彼がアマチュア時代にどっかの大会の決勝で当たって俺が負けた後に延々とダメだしされた事がありましたねぇ…あの時も言ったが改めて言おう「俺はそこまで上手くない!」朝まで一緒にビリヤードのビデオ見ながら語り合ったり…最後に一緒に撞いたのは10年以上前に奥村プロのお店に挨拶に行った時に偶然会ったときでしたかね?結果は俺の記憶を消し去るくらいのボロ負けだったようです。

さらにはぢゃいこと林君(いや、ぢゃいさんだろw)も触れておかないといけないですね。長距離トラックの運転手にしてSAの上に超を付けても誰も文句を言わないであろうトップアマですね。PP(かつてあったPool Playersというビリヤード専門のSNSです)のオフ会会場としてセブンを利用して頂くことが多かったのでふらっと寄ったよみたいに大型のトラックを店の前にど~んと止めて次々に勝って「ほな、仕事戻るわ」って消えて行くというね…何度もセットマッチをやりましたが5先で勝ったのは1回だけだと思います。FBで闘病の状況を報告していたので心配はしていたのですがついに帰らぬ人となってしまいました。

ビリヤードの仲間3人はいずれも年下です。俺がビリヤードから離れていることもあって疎遠になっていましたがみんな同じ趣味を持つ熱い仲間でした。月並みではありますが早すぎますねぇ…

母を含め他界した皆さんのご冥福を心よりお祈りすると共にまだしばらく現世に残ることを許されていることに感謝と責任を新たに彼らに恥じぬよう一生懸命生きて行きたいと思います。ありがとうございました。


2019年振り返り(母の事 Part4)

昨日は母が亡くなったところまでを書きましたので、今日はその続きです。

父と一緒に母の呼吸が止まったことを確認し、俺はドクター、看護師さん、ママ、弟たちに連絡をします。

夜中ではありましたが、ドクターが死亡を確認しその時の時間が正式な母の死亡時刻として死亡診断書に記載されました。「お母さまはよくがんばったと思いますよ」と声を掛けて頂きました。確かに4月に帰って来たときにはGW辺りが山になるという話しだったのでそれから1か月以上一緒に過ごせたのは母のがんばりだと思います。

すぐ下の弟夫妻、一番下の弟夫妻、そしてうちのママも駆けつけました。看護師さんに母の着せ替えなどの処置をして頂き弟が手配していた葬儀屋に電話を掛け夜中の3時前には母は安置所へと運ばれて行きました。

生前の看護に関しては隣に住んでいる俺が担当し、葬儀などの亡くなってからのことは弟が担当することで話しが決まっていました。母の希望でもあったできるだけ騒がれることなく静かに家族だけで送って欲しいという要望のとおり近所の誰にも気づかれることはありませんでした。

朝を迎え5日ほど仕事を休みにする必要があるので各所に連絡をしました。子供たちには起きて来たときにおばあちゃんが亡くなったということを伝えましたが、何ができる訳ではないので当日は学校に行かせ翌日の葬儀の時のみ忌引きで休むことにしました。

母は当初火葬場への直葬で良いと言っていたのですが、洗礼を受けたこともあり伯父さんにお願いをしてキリスト教式の家族葬で送ることにしました。参列者は親父と我々兄弟とその子供たち、そして式を挙げてくれた牧師の伯父さんと伯母さん、従弟とその家族の僅かな人数でした。手続きの都合で喪主は俺が務めることになりましたが、手配その他は前述のとおり弟と伯父さん、葬儀場で滞りなく進みました。

伯父さんの説教があり、賛美歌を歌い、花を添えて、出棺の前に伯父さんに促される形で母の最期を俺が語ることになりました。この時はさすがに泣きました。ただ、それ以外の場面では不思議と涙は出ませんでした。

その後、大和斎場で荼毘に付されました。お墓はまだ決まっていません。福田家の墓は親父の故郷である鹿児島にありますが、宗教も違いますし親父もそこに入る気はないようなのでしばらくは慣れ親しんだ家に居ることになりました。いつか親父も母の元に行く日が来ると思いますがそのときに一緒に入れる場所をゆっくり探すことにしています。

母の遺影は去年の4月に母が進級祝いにと言ってうちの子供たちを外食に誘ってくれたときに取った写真をトリミングして使いました。

遺影の写真を見て優輝が「おばあちゃんの元気な顔で良かった」と言ったのが印象的でした。やさしくていつも味方で畑に行けばいつでも会える元気なおばあちゃんは徐々に弱って行きそして天国に旅立ちました。優輝の中に「元気なおばあちゃんに会いたい」という思いがあったのだと思います。

母が亡くなり半年が経とうとしています。今でも母が最期に何を言おうとしたのかが気になっています。恐らく何かの折に思い出し一生思い出すのだと思います。みんなは「ありがとう」「心配しないで」「がんばってね」などと想像しているようです。俺もそのような言葉だったのだろうと思います。ただ、俺には「しっかりね」と言われた気がしています。最後まで心配ばかり掛ける出来損ないの息子でごめんね。でも、母親の息子で良かったよ。ありがとうね。


2019年振り返り(母の事 Part3)

昨日は母に病状を父が告知するところまでを書きました。今日はその後についてです。

母もなんとなく気付いてはいたのでしょうが、実際に告知をされると不安や恐怖があったのだと思います。ただ、母の望みをできる限り聞くことができる機会ができたのは母も我々家族も良かったのではないかと思います。

意識があり会話ができるうちにと親戚、知人などに電話を掛けていたようです。会社の会計は母が中心にやっていましたが、粗方引き継ぐこともできました。家族との写真を欲しがったので3兄弟とそれぞれの家族で写真を撮りました。姿勢を変えることも難しくなっていたので目線の先に写真を置いておきました。

痛み止めにより痛みは抑えられていましたが、精神的に不安定なことが続くようになりました。安定剤を使い落ち着きを取り戻していましたが意識レベルが落ちるので会話が段々と難しくなって行きました。

そんなある日に母が妙にシャンとしていました。別に予告をしていた訳ではないのですが、牧師の父の兄(すなわち俺の伯父さんです)と同じく牧師の従弟が伯母さんと一緒に見舞いに来てくれました。それまでも何度か来てくれていたのですが、この日は洗礼を受けキリスト教徒として最後を迎える覚悟をしたようです。

父はクリスチャンなので俺の小さい時には家族で毎週のように伯父さんの教会の礼拝に行っていました。もちろん母も一緒に行っていたのですが、信仰について話しをした記憶はありませんし1月の兄弟会議でも無宗教のまま葬儀はいらないと言っていたのですが、死の現実を前に神様を受け入れる準備ができたのかもしれません。

心の安寧とは不思議なものでその日から安定剤がなくても痛み止めだけで過ごせるようになりました。聞き取ることが難しいこともありましたがきちんと会話が成立していました。

ただ、そうは言っても徐々に体力が落ちていきます。食事をすることもできなくなり点滴だけが唯一の栄養補給の手段になり昼夜構わず寝ている時間が増えて行きました。

親父もずっと献身的に介護していましたが、目を離すことができず疲れも出て来ていたようなので時間を作って半日ほど俺が母のベッドサイドにいる事にしました。時々薄っすらと目を開けることはありましたが基本的には寝てばかりの母の手を握りながら思い出話と感謝の気持ちをずっと母の耳元で話し続けました。

翌日の朝、いつもと同じように子供たちと一緒に実家に行き母に朝の挨拶をした際にか細い声で「いってらっしゃい」と言ったのが俺の聞いた母の最期の意思を持った言葉となりました。

それから3日後の6月25日の夜中12時前に父からの内線で実家に呼ばれます。日中に看護師さんから「肩で息をするようになると、そこからは早いと思います」という話しを聞いていたので息の荒くなった様子を見て俺を呼んだようです。

しばらく父と二人で声を掛けていましたが、いよいよ息が荒くなり父が看護師さんに緊急連絡するために居間に行っている間にその時が来てしまいました。

俺が手を握り「大丈夫、何も心配しなくて良いよ」と声を掛けたときに今までただ大きく空いていただけの口が明らかに何かしゃべるように動きました。ただ、その口元から声を聴くことは出来ませんでした。

さっきまでの荒々しい息遣いはありませんでした。手を握ったまま「ごめん、聞き取れなかった」と言った俺の声で隣の居間にいた親父が事態を悟ります。

日付が変わり6月26日午前0時36分に母は天国へと旅立ちました。


2019年振り返り(母の事 Part2)

昨日は母に治療の方法がなく余命半年以内との告知を受けたところまでを書きました。今日はその後について書いて行こうと思います。

父と話した結果、母には余命のことは告げず2回目の抗がん剤治療が延期になったので一度帰宅して症状が落ち着いたら通院で治療を継続すると母には話をすることにしました。介護チームの皆さんと打ち合わせの上4月の中旬に1か月半ぶりに母は実家へと帰って来ました。

この間に、優輝は幼稚園を卒園し小学校に入学、匠太は中学校を卒業し第一志望の高校に進学。そして、母からみれば同じ孫である姪っ子は高校を卒業して大学に進学していました。優輝は本当ならば一緒に買いに行く予定だったランドセルを背負った姿を見せることができましたし、匠太も高校の制服姿を見せることができました。

抗がん剤治療により髪は薄くなり食欲もないことから痩せてしまってはいましたが、帰って来てほっとしたのか楽しそうに4月の下旬を過ごしていました。この頃に近しい親戚などには病状を伝えていたのでGWの休みを利用して多くの親戚が母の見舞いに来てくれました。俺も久しぶりおじさん、おばさん、従妹などと会いました。でも、やっぱり二人の弟夫妻が頻繁に来てくれていたのは心強かったですし母も独立した弟たちを含めた孫と会うのを楽しみにしていたようです。

連休が明けてからはベッドの上で起き上がることも難しくなり、日常の介護は介護チームの皆さんの協力を得ながら親父が中心にやっていました。ママは介護に関してはプロだった訳ですが親父がピンチのときにサポートする形で陰からいつでも助けてくれていました。まぁ、こういうときの長男はだらしないですね。ほんとに何もできなかったですねぇ…

段々落ちていく体力に母が疑問を持ち始めます。母が飲んでいる薬は痛み止めばかりで治療の効果のあるものは何一つありません。痛み止めは徐々に強くなり寝ている時間も長くなって行く中で早く病院にもどって治療を再開したいと言い出します。我々兄弟の中でも母への告知は賛否が分かれていました。俺と一番下の弟は告知した方が良いと考え、2番目の弟はショックを与えない方が良いだろうという考えでした。最終的に親父が告知しないと決めて、我々はその決断に従っていました。ただ、一向に良くならない病状に母の焦りも加わり精神的に不安定になって来ていました。そこで、俺から親父に「意思の疎通ができるうちにきちんと伝えて思っていることも聞いた方が良いのではないだろうか?喋れなくなって本人が自覚したときに何も聞いてあげられないのはお互いに辛いと思う。親父が言いにくければ俺から伝えようか?」と聞いてみました。何事も即決の親父が珍しく「少し考えさせてくれ」と言うのでその場の話しは終わりました。

翌日、いつもどおり子供たちを連れて学校に行く前に朝の挨拶で実家に寄りました。すると母から「子供たちは知ってるの?」と聞かれました。この一言で親父が昨日の夜のうちに母に告知をしたことを知りました。「匠太は知ってるけど、優輝にはまだ言ってないよ」と言うと優輝をベッドサイドに呼んで「おばあちゃんはもうすぐ天国に行くことになったんだよ。天国に行ったらずっとお空から見ているからね。」と自ら優輝に話しをしました。まだ、覚悟はできていなかったと思います。多分自分に言い聞かせる意味もあったんだと思います。

そして、その時は静かに確実に迫って来ていました。


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