2019年振り返り(母の事 Part1)

久しぶりの「今日のどう?」更新ですねw

セブンを閉店してからプライベートな事はSNSで発言することが多くブログの更新は基本的にビリヤードの活動日記みたいになってましたからね。

ただ、今年はあまりにいろいろなことがあったので少し整理して書き残して置きたいと思った訳です。今日は一番重いテーマから書いてみようと思います。

2019年6月26日に母が亡くなりました。77歳でした。

先日、出した喪中はがきで知ったという方も多かったようでビックリしてお電話やメールを頂いた方も何人かいらっしゃいました。お知らせもせず申し訳ありませんでした。他にも母はセブンの店番に長い間立っていてくれましたのでセブンに遊びに来て頂いていたみなさんへのご報告はまだでしたのでこの場を借りて少し詳細を書きたいと思います。

昨年の夏ごろから足が痛いと言って整形外科を受診していたのですが、股関節が変形していることが原因とされ人工股関節にする手術を行う方向で話しが進んでいました。ただ、母は心臓に持病があったため全身麻酔での手術に対して身体への負担が大きくタイミングを見て実施することになっていました。それにしてもあまりに痛みがひどいので痛みの原因は他にあるかもしれないということで精密検査を行いました。その結果が出たのが今年の1月でした。

結果は「悪性リンパ腫」要はリンパの癌です。股関節の痛みは癌が股関節の骨を変形させたことが原因で他にも7か所に発現箇所が見つかりました。リンパ腫は癌と言っても悪性部位を外科手術で取り除くことはできませんので抗がん剤治療が治療方針として採用されることになりました。ただ、どの抗がん剤を使うかを確定するための細胞診を行うためのサンプルが7か所も発現箇所があるにも関わらずどこにもない状態だったので主治医の先生の経験を元に幾つかのパターンで抗がん剤を組み合わせて効くものを探すという方針になりました。

それらのことを告知された後に俺たち3兄弟が母によって集められ今後の治療や万が一の場合に備えての母の希望などを聞くことになりました。このときの母の口ぶりは癌なので万が一はあるかもしれないけど闘病が長引くかもしれないのでという感じだったように思います。

母の希望は万が一の場合には家族だけで静かに送って欲しいということでした。ただ、そのときは数年先の話しとして我々兄弟も母も話しをしていたんだと思います。

2月24日は母と匠太の誕生日です。ここ数年は両親を自宅に招いて一緒に誕生会を開いていました。食は細くなっていましたが好きな寿司をいくつかつまみ孫たちに囲まれて楽しい時間を過ごしたのではないかと思います。ただ、この日が母が我が家に立ち寄った最後の日になってしまいました。


(母と親父、匠太、優輝)

2月28日の夜に母が足の痛みがひどくてどうしようもないと訴えます。3月2日に病院に行く予定だったのですがそれが待てないというひどい痛がりようだったので父と一緒に病院に連れて行き、そこで緊急入院することになりました。

数日後、家族が病院に集められ一刻も早く抗がん剤治療を始めるべきとの主治医の先生の意見に従い治療を開始することになりました。その際に背骨の近くから細胞が取れて細胞診が可能になりました。皮肉にも患部が腫れたことで癌の発現位置にカテーテルが届くようになったということでした。これによりより精度の高い抗がん剤治療ができるという期待が高まりました。

そして、はじまった抗がん剤治療は想像を絶する苦しさだったようです。ただ、6回予定された治療の1回目で予定された十分な効果が得られており明るい材料となっていました。

2回目の抗がん剤治療を終えた後に退院し、その後は通院で治療を続ける予定でした。そのために実家をバリアフリーに改装し、3階までを車いすのまま運べる特別なキャリヤの操作技術を俺が取得し、ケアマネジャーを中心に在宅看護師、訪問ドクター、介護ヘルパーなどによる介護チームを編成して頂き病院との連絡を取りながら退院の日を決定する手はずでした。

3月は大学の集中講義が多いため外に出ていることが多かったのですが、そんな授業中に病院から電話が入ります。休憩時間に折り返すとできるだけ早い時期に主治医の先生が直接今後のことについて話しをしたいということでした。

スケジュールを調整し父と病院に向かったのは2日後だったと思います。主治医の先生から抗がん剤治療前の検査で前回の治療のダメージが大きく、これ以上治療を継続した場合に命の保証ができないという説明を受けます。父と母は治療が延期されるくらいに思ったようですが、俺は「治療を中止する」という言葉から唯一の治療を行わない。すなわち手の施しようがなくなったと理解しました。病室を出る先生を廊下まで見送る際に「あとどれくらいですか?」と聞いてみました。「早ければ来週かもしれません。長くても半年、夏を越えることはないと思います。」もちろんショックではありましたが、この日呼ばれたときからなんとなく覚悟ができていた事もあり意外に冷静だったように思います。その後、親父と別室に呼ばれ主治医の先生から親父にも説明がありました。帰りの車で親父が「絶対に俺の方が早いと思っていたんだがなぁ」と言ったのが唯一そのときにした会話で覚えている内容です。

やっぱり長くなりそうなので何回かに分けますね。なんかささっと書こうと思っていたんですがなかなか思い通りにはなりませんねw

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