昨日は母に病状を父が告知するところまでを書きました。今日はその後についてです。
母もなんとなく気付いてはいたのでしょうが、実際に告知をされると不安や恐怖があったのだと思います。ただ、母の望みをできる限り聞くことができる機会ができたのは母も我々家族も良かったのではないかと思います。
意識があり会話ができるうちにと親戚、知人などに電話を掛けていたようです。会社の会計は母が中心にやっていましたが、粗方引き継ぐこともできました。家族との写真を欲しがったので3兄弟とそれぞれの家族で写真を撮りました。姿勢を変えることも難しくなっていたので目線の先に写真を置いておきました。
痛み止めにより痛みは抑えられていましたが、精神的に不安定なことが続くようになりました。安定剤を使い落ち着きを取り戻していましたが意識レベルが落ちるので会話が段々と難しくなって行きました。
そんなある日に母が妙にシャンとしていました。別に予告をしていた訳ではないのですが、牧師の父の兄(すなわち俺の伯父さんです)と同じく牧師の従弟が伯母さんと一緒に見舞いに来てくれました。それまでも何度か来てくれていたのですが、この日は洗礼を受けキリスト教徒として最後を迎える覚悟をしたようです。
父はクリスチャンなので俺の小さい時には家族で毎週のように伯父さんの教会の礼拝に行っていました。もちろん母も一緒に行っていたのですが、信仰について話しをした記憶はありませんし1月の兄弟会議でも無宗教のまま葬儀はいらないと言っていたのですが、死の現実を前に神様を受け入れる準備ができたのかもしれません。
心の安寧とは不思議なものでその日から安定剤がなくても痛み止めだけで過ごせるようになりました。聞き取ることが難しいこともありましたがきちんと会話が成立していました。
ただ、そうは言っても徐々に体力が落ちていきます。食事をすることもできなくなり点滴だけが唯一の栄養補給の手段になり昼夜構わず寝ている時間が増えて行きました。
親父もずっと献身的に介護していましたが、目を離すことができず疲れも出て来ていたようなので時間を作って半日ほど俺が母のベッドサイドにいる事にしました。時々薄っすらと目を開けることはありましたが基本的には寝てばかりの母の手を握りながら思い出話と感謝の気持ちをずっと母の耳元で話し続けました。
翌日の朝、いつもと同じように子供たちと一緒に実家に行き母に朝の挨拶をした際にか細い声で「いってらっしゃい」と言ったのが俺の聞いた母の最期の意思を持った言葉となりました。
それから3日後の6月25日の夜中12時前に父からの内線で実家に呼ばれます。日中に看護師さんから「肩で息をするようになると、そこからは早いと思います」という話しを聞いていたので息の荒くなった様子を見て俺を呼んだようです。
しばらく父と二人で声を掛けていましたが、いよいよ息が荒くなり父が看護師さんに緊急連絡するために居間に行っている間にその時が来てしまいました。
俺が手を握り「大丈夫、何も心配しなくて良いよ」と声を掛けたときに今までただ大きく空いていただけの口が明らかに何かしゃべるように動きました。ただ、その口元から声を聴くことは出来ませんでした。
さっきまでの荒々しい息遣いはありませんでした。手を握ったまま「ごめん、聞き取れなかった」と言った俺の声で隣の居間にいた親父が事態を悟ります。
日付が変わり6月26日午前0時36分に母は天国へと旅立ちました。