「忘れる」と「知らない」

今日は町田の大学でガイダンス。俺の担当講義ではないんですが、ガイダンスくらいなら出来ますからね。まぁ、こういう仕事もちゃんとこなさないといけない訳ですが、専門分野じゃないだけに事前の下調べなんかがいつもより大変だったりするんですよね。
「そこまでしなくても良いのに?」とも言われるんですが、俺自身はまだ足りないような気がしてしまうんですよね。
担当講義にしても下調べしたことの半分も授業で使えば御の字で大半は授業では使わない内容なんですよね。それを単に効率が悪いと言ってしまうのは簡単なことなんですが、必要な無駄というのはあるものだと思ってます。
自分が使えるかどうかなんて学習しているときには分からないものです。微積分なんて使わないよ。なんて高校生のときには思ってましたが35歳を過ぎてプログラムで使う羽目になりましたからね。概略さえもしらなければ微積分の基礎から学ぶ必要がありますが、高校生の頃にやっていたので参考書をちょっと読んだだけで解決したなんてことがあります。
俺はよく受講生の方に「忘れると知らないは根本的に違う」というような話しをします。忘れるというのは人間の記憶からしてしかたないことです。必要でないことはどんどん忘れて行く訳です。でも、完全に忘れてしまうのか?というとそういうことではありません。何かをきっかけとして忘れていたものは思い出すことがあります。
例えば久しぶりの同窓会で数十年ぶりに友人に会ったとしましょう。普段は思い出しもしない当時の記憶が蘇るなんてことは誰しも経験がありますよね?
今は必要がないから記憶の端にあるだけで必要なときに何かのきっかけで思い出すことが出来る訳です。
逆に知らないというこは思い出すことは出来ません。知らないんですから・・・
あれは無駄、これも無駄として効率化を重んじる傾向は俺は疑問です。自分にとって無駄に思えることであったとしても他人にとっては有益である可能性だってある訳です。それを自分の価値観だけで無駄と論じる風潮はあまり好きではないですね。
だから例え俺は無駄と思われても事前の準備にいっぱい時間を掛けるようにしています。それが今回は役立たなくてもいつか役立つことがあるかもしれませんからね。
夕方には臨時で出張の仕事が入りました。無線LANが繋がらないということだったんですが、家庭内LANが複雑になっている上にそれをご本人があまり意識していないので新しいPCの接続が上手く行かないと言う感じでしたね。
俺の方で状況を把握し整理して使えるようにしましたが、久しぶりにMacの設定をしたので思い出すのにちょっと時間が掛かりましたね。サポートディスクはWIN用しかなかったので俺の記憶が頼りになりました。これも前述と重なる部分がありますね。
今はWinが中心ですがMacやLinuxだってかじっておかないと何が起こるか分かりませんからね。
夜はセブンに入ります。常連さんお二人とナインボールと10ボールのセットマッチ。ライブテーブルで撞いていたんですが、ちょっとコンディションが悪すぎるので明日は少しテーブルに手を加えて調整しようと思ってます。
いつも思うけどほんと俺なんでも屋だなぁ・・・

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