正論の落とし穴

今日はPCの授業が3コマ。今年の授業回数も少なくなって来ましたねぇ・・・大学も今度の金曜日の講義で今年は終了だしいよいよ年の瀬って感じです。
授業の1コマは義弟の授業だったんですが、義父母がみかんを持って来てくれました。匠太は思わずおじいちゃんおばあちゃんに会えて嬉しかったみたいですね。俺は授業の合間だったので挨拶程度しか出来ませんでしたがいつもすいません・・・正月は俺もご厄介になります。
夜はセブンに入りますが、今日は水曜の割には暇でしたね。みなさん年末で忙しいんでしょうかね?
俺は声が掛からなかったので裏のPC教室でWEB系開発の仕上げ。一応の機能は出来たんですが、操作性をもう少し上げたいと思って画策しているんですよね。ただ、これが一筋縄ではいかない・・・
理想を追求して思い切った変更を加えるか、実利を取って多少の操作性を犠牲にしてでも公開を優先するか・・・まぁ、最終的にはクライアントの判断になると思うのでこれで一回テストで投げてみるかな?
さて、たまには少しまじめな話もしましょうか・・・
以前から何度か書いてますので焼き直しになる部分もあると思いますが、ご了承ください。
自分は正しいと思い行動することは大事なことです。俺も常にそうしているつもりです。ただ、自分が正しいと思っていることが万人に正しいことであるとは限らない訳です。
例えば有名な話としてDHMO(一酸化二水素)の規制に関するものがあります。この物質は日常にありふれているんですが、以下の特性を持つと言われています。
・原子炉内に多量に含まれる
・多量に摂取した場合は中毒になり死に至ることもある
・酸性雨の主成分である
・腐食を進ませる
・電気事故の原因となりうる
他にも調べればいっぱい出て来ます。こんな物騒な物質は規制の対象に加えるべきだとカリフォルニア州の一部地域では実際に規制に向けた議決を行う予定だったんですよね。
これをもう少しわかりやすい言葉で匠太に言ったことがあります。
俺「こんなものがあったら怖くない?」
匠太「なんで?水でしょ?なぞなぞみたいなものだよ。」
とケロっと答えられたのは正しく育っていてくれるな。と安心するやら関心するやら・・・
そうなんです。物質の正体は水です。なんでも先入観をもって考えれば怖いものになっちゃう訳です。
自分は正しいから自分と意見の違う人は間違っているという単純な思考では多くの物事は解決しないし動かない訳です。自分の周りを自分と同じような意見の人でまとめれば心地よいでしょうしより自分は正しいと思えるかもしれません。
でもね・・・
自分と違う意見を受け入れる度量がないといけないと思うんですよ。もちろんどうしても受け入れられないものもあるでしょう。それは、自分が受け入れなければ良いだけで相手を批判してもよいということではないと思う訳です。
世の中には本当に正しいものなんてなかなかないものです。
地動説を唱えたガリレオは有罪とされ人生後半を軟禁生活で送ることになったと言われていますが、ローマ教皇が裁判の誤りを認めたのは死後350年も経ってからです。
1+1=2
こんなことさえ実際の場面では不確かになります。2つの粘土をこね合わせれば1+1=1になる訳です。質量が倍になる?そうかもしれません。でも、こね合わされた粘土を見て「いくつある?」と聞かれて2つと答える人はいない訳です。
1÷3=0.33333・・・・
ですよね?ということは・・・
(1÷3)+(1÷3)+(1÷3)=0.99999・・・・
ということで良いですかね?じゃあ・・・
小学校低学年の分数です。1/3を3つ集めると1ですね。答え違ってませんか?
もちろんこれは数学的に正しいことが証明されていますし、概念と実際は違う訳で0.99・・・=1というのは俺は理解しています。
なんでもかんでも白黒付けて俺は正しい、お前は間違いという考えには危うさを含んでいるということを言いたいだけなんですけどね。
自分を擁護し人を批判することは簡単です。逆に自分とは正反対の意見の中からも冷静、客観的に判断してお互いに良い関係を維持することは難しいかもしれません。
そこにはなんらかの妥協と納得をしないといけないからです。
自分の意見を主張し妥協を許さない。それこそが実は誤りのはじまりじゃないかと思ってます。自己批判を忘れた者に他者を批判する権利など俺はないと思ってます。

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