2019年振り返り(母の事 Part2)

昨日は母に治療の方法がなく余命半年以内との告知を受けたところまでを書きました。今日はその後について書いて行こうと思います。

父と話した結果、母には余命のことは告げず2回目の抗がん剤治療が延期になったので一度帰宅して症状が落ち着いたら通院で治療を継続すると母には話をすることにしました。介護チームの皆さんと打ち合わせの上4月の中旬に1か月半ぶりに母は実家へと帰って来ました。

この間に、優輝は幼稚園を卒園し小学校に入学、匠太は中学校を卒業し第一志望の高校に進学。そして、母からみれば同じ孫である姪っ子は高校を卒業して大学に進学していました。優輝は本当ならば一緒に買いに行く予定だったランドセルを背負った姿を見せることができましたし、匠太も高校の制服姿を見せることができました。

抗がん剤治療により髪は薄くなり食欲もないことから痩せてしまってはいましたが、帰って来てほっとしたのか楽しそうに4月の下旬を過ごしていました。この頃に近しい親戚などには病状を伝えていたのでGWの休みを利用して多くの親戚が母の見舞いに来てくれました。俺も久しぶりおじさん、おばさん、従妹などと会いました。でも、やっぱり二人の弟夫妻が頻繁に来てくれていたのは心強かったですし母も独立した弟たちを含めた孫と会うのを楽しみにしていたようです。

連休が明けてからはベッドの上で起き上がることも難しくなり、日常の介護は介護チームの皆さんの協力を得ながら親父が中心にやっていました。ママは介護に関してはプロだった訳ですが親父がピンチのときにサポートする形で陰からいつでも助けてくれていました。まぁ、こういうときの長男はだらしないですね。ほんとに何もできなかったですねぇ…

段々落ちていく体力に母が疑問を持ち始めます。母が飲んでいる薬は痛み止めばかりで治療の効果のあるものは何一つありません。痛み止めは徐々に強くなり寝ている時間も長くなって行く中で早く病院にもどって治療を再開したいと言い出します。我々兄弟の中でも母への告知は賛否が分かれていました。俺と一番下の弟は告知した方が良いと考え、2番目の弟はショックを与えない方が良いだろうという考えでした。最終的に親父が告知しないと決めて、我々はその決断に従っていました。ただ、一向に良くならない病状に母の焦りも加わり精神的に不安定になって来ていました。そこで、俺から親父に「意思の疎通ができるうちにきちんと伝えて思っていることも聞いた方が良いのではないだろうか?喋れなくなって本人が自覚したときに何も聞いてあげられないのはお互いに辛いと思う。親父が言いにくければ俺から伝えようか?」と聞いてみました。何事も即決の親父が珍しく「少し考えさせてくれ」と言うのでその場の話しは終わりました。

翌日、いつもどおり子供たちを連れて学校に行く前に朝の挨拶で実家に寄りました。すると母から「子供たちは知ってるの?」と聞かれました。この一言で親父が昨日の夜のうちに母に告知をしたことを知りました。「匠太は知ってるけど、優輝にはまだ言ってないよ」と言うと優輝をベッドサイドに呼んで「おばあちゃんはもうすぐ天国に行くことになったんだよ。天国に行ったらずっとお空から見ているからね。」と自ら優輝に話しをしました。まだ、覚悟はできていなかったと思います。多分自分に言い聞かせる意味もあったんだと思います。

そして、その時は静かに確実に迫って来ていました。

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